Link to English page 'Founded with an eye to the world' 柴原 茂樹 / 東北大学大学院医学系研究科・教授、The Tohoku Journal of Experimental Medicine編集長 三須 建郎 / 東北大学大学院医学系研究科多発性硬化症治療学寄附講座助教

東日本大震災 そして

震災当日の医学部とTJEM

東日本大震災は大きな爪痕を残しました。先生方にも苦労があったと思いますが。

今もなお、被災地では多くの方が苦しんでいますし、復興が進まず大変な思いをされています。私自身も研究人生をかけて集めてきた検体が一瞬で失われてしまうなど、震災ではさまざまなことがありました。しかし沿岸部の状況を見れば、そうしたことも小さなものでしかなかったと思います。

3月11日、私は研究室にいましたが、書物や実験器具が床に散乱し、棚は八の字に倒れた状態となっている中、かろうじて建物の外に出ました。東北大学病院の11階まで階段を上り、病棟が平穏に保たれている事を確認していると、院内放送で、学外からの救急要請に対処するために救急体制をとることが告げられました。救命センターの指示で2、3名の医師や看護師とともに、初動の重症度によって治療の順番を決めるトリアージ体制を手伝うこととなり、救急部のスタッフと交替する19時半過ぎまで対応しました。次々と津波情報が入り、自宅が被害を受けていないのか不安でしたが、家族とも連絡が取れ2時間近く真っ暗な中を歩いて帰りました。

次の日からは被災地のバックアップ病院としてヘリ搬送等でやってくる重傷者を待つことになりました。ともかく被災後の日常は容赦なく何かに追われていたと思います。

その後、被災地の石巻に診療応援の第一陣として向かいました。石巻の現状は想像以上で、仙台市内とは全く次元の異なるものでした。休みの日には閖上や岩沼周辺にも行き避難所などを回りましたが、被災地の方々も先生方も皆疲れ切っていました。物資などが届くようになりましたが、人々の気持ちを回復させるには、自分はあまりにも力不足だと痛感しました。今も担当する病院などで被災者の人の話を聞いたりしています。東北地方の復興なくして、東北大学も自分にとっても復興はありえないと感じています。

震災時(14時46分)は医学部のビル(1号館)の7階にいました。経験したことのないほどの強く長い揺れに、このままビルが崩落してしまうのかと死を覚悟しました。幸いにもビルは持ちこたえ、日本の耐震技術に感謝したことを覚えています。

当時は医学科長でもあったため、学生、教職員の安否確認などの緊急業務に忙殺されました。地震のため停電でしたので、日が暮れる前までに各ビルの安全確認を終了させました。非常用電源装置があるため、1号館玄関ロビーに隣接する警務員室を医学系研究科の緊急災害対策本部としました。行き場の無い学生、院生とその家族達が、寒い一夜を玄関ロビーで過ごしました。

三陸海岸、仙台平野、相馬平野の津波災害の悲惨さが明らかになるに連れて、何かを書かずにはいられないという心境になりました。編集長としてできることをしようと考えたのです。このキャンパスの近くで、数千人の死者・行方不明者がいるという現実が信じられませんでした。余震が続く中、魂の思うままに一気に書きました。被災地で働く若手医師から提供された写真を提示するなどして、3月28日に完成させ、4月9日に公開しました(Tohoku J. Exp. Med. Vol.233 (2011), No.4 p.305-307)。これは被災地からの英語による最初のレポートでした。ここで東日本大震災とそれに伴う津波被害を概説し、災害科学を対象に加えるというTJEM誌の新たな編集方針を打ち出しました。

なお、震災後も電子投稿システムは機能していました。従って、オンライン公開(オープンアクセス)には殆ど支障はありませんでしたが、印刷会社が被災したため、冊子体の刊行は約1ヶ月遅れました。オンライン公開が災害時に有効であることを実感すると共に、J-STAGEのご支援の賜物と、感謝する日々でした。

2013年には、編集部として、東日本大震災の被害の総括と過去の大震災との比較などを報告しました(Tohoku J. Exp. Med. Vol.229 (2013), No.4 p.287-299)